高2の時、ある出来事がきっかけでイップスになった谷口智哉さん。そんな自分と徹底的に向き合うことで克服し、完全復活を果たしました。大学卒業後は、同じように悩んでいる選手を助けたいとイップス研究家になった谷口さんの貴重なお話をお聞きしました。

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栄光の中学時代から高校野球部へ
中学時代は世田谷西シニアで全国優勝を果たし、その実績から推薦で慶應高校へ入学しました。目標は、レギュラーで甲子園出場。当時の私は、野球選手としての階段を順調に上がっていたのです。しかし、高校の野球部では試合に出られない日々が続きました。高2の春、ようやく代走で初出場。そこからコツコツと実績を積み上げ、レギュラーではないものの試合に出られるようになりました。途中から守備につき、打席がまわってくるとヒットを打つ。そんな調子のよい状態が、高2の夏まで続きました。

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ベンチ入りメンバーを巡って
迎えた高2の夏、神奈川大会を前にベンチ入り20人の選考が行われました。当時のやり方は、まず100人以上いる部員の中から30人に絞られ、その30人に選ばれなかった3年生と監督、キャプテン、大学生のコーチで20人を最終決定するというものでした。2年生だった私は、3年生の先輩2人と背番号18の外野手の座を争っていました。優勝した春の神奈川大会では、代走で結果を出していた私は、周りの人からもメンバー入りはほぼ決まりだと思われている状況。しかし、いざメンバーが発表されると、その中に私の名前はありませんでした。「あれ?」と、一時は落胆しましたが、自分たちの代になってレギュラーになればいいのだと気持ちを切り替えました。

ここからが本番!と思った矢先…
3年生が引退し、いよいよ自分たちの時代がやってきました。新チームで始動した矢先、私は監督から呼ばれました。話の内容は、夏の予選大会前のメンバー選考のこと。監督は私にひと言、こう言いました。「お前は、信頼がないのか?」と。実は監督やコーチ陣は、私をメンバーに入れようと考えてくれていたのですが、3年生が断固として受け入れなかったと言うのです。その理由は「ベンチで声を出さない」「盛り上げようとしていない」ということでした。監督の話を聞いた時、自分では腑に落ちなかったのですが、よくよく考えみれば余裕がなかったのかもしれません。代走で試合に出ることの多かった私は、ずっと相手チームのピッチャーを観察しており、いつ呼ばれても結果を出せるように準備をしていました。言い訳かもしれませんが、代走という役割に徹していたがゆえに、周りからは声も出さないヤツだと思われていたのでしょう。監督から「自分を変えないとレギュラーになるのは難しい」と釘を刺されました。

野球人生最悪の試合
私は内心、焦りを感じ始めていました。というのも、一つ一つのプレーに監督から指摘を受けるようになったからです。「監督からも信頼を得ていないのではないか」。そんな考えが頭をよぎるようになりました。こうして思うように結果を出せないまま、野球人生最悪の試合を迎えることになります。それは、選抜に向けての秋季大会のこと。その試合、チームメイトたちは皆がベストパフォーマンスを繰り広げていました。監督から見ても理想の試合だったと思います。7回で5点差、私は途中交代で守備についたのですが、ひどく緊張していました。チームメイトのベストパフォーマンスも、聞こえてくる歓声も、すべてがプレッシャーとなってのしかかり、結果を出さなかったらどうしようということばかり考えていました。「自分のところに飛んで来るな」とさえ思っていたのですが、そういう時に限って飛んでくるもの。「カーン」という音を聞いて後ろに走ったのですが、実際はもっと前で、エラー。焦って、さらに暴投という結果に。

次の回、打席が回って来ました。サインを見るとバント。何が何でも決めなくてはと思い過ぎて、まったくボールが見えず、2球続けてファール。結局、サインが「打て」に変わったので、やけくそな気持ちになったところに、ヒットが出たのです。これで一件落着かと思われたものの、実はもうひと波乱が待っていました。塁に出ても気持ちがうごめいていた私は、監督のサインを見逃してしまいます。血の気が引くのがわかったのですが、タイムを取る余裕もなく、2塁ランナーの動きを見て帳尻を合わせようとしました。その結果、2塁ランナーが走ったと勘違いした私が走り出しため、その2塁ランナーがアウトに。まさに、2013年WBCの内川選手のプレーのようです。内川選手はアウトになり、私はならなかったところに違いがありますが、内川選手より先にやったのが自分だったのです(笑)

迷い込んだ闇の世界
まさに自分だけが空回りしていたこの試合をきっかけに、闇に迷い込んだ私。監督からの信頼を失い、背番号は18から20番台に。練習の時でさえ、思うように投げられなくなっていました。肩も弱くなり、捕球ができなくなるのではないかと、太陽や青空、地面のでこぼこさえも気になってしまいました。そんな中、唯一できたのは走塁。自分なりのノウハウを持っていたからです。それ以外は自分のプレーができなくなっていました。練習量を増やしても試合に活かせることはなく、1年間苦しみ、とうとう最後の夏の神奈川大会がやって来ました。そこでメンバーに選ばれたのは後輩でした。最後となった試合では、偵察係として私服を着てバックネット裏で観ており、そこで私の高校野球は終わりました。シニア時代のチームメイトの活躍を横目に、「自分の高校野球はなんだったのか」と、そんな気持ちになったことを覚えています。涙も出ない、悔しいという気持ちにも達しない中途半端な気持ちでした。

再スタートを切った日
そんな高校野球の最後を迎えたものの、野球を辞めたいという気持ちにはなりませんでした。大学でリベンジするという思いを持ち、ここで終わってはいけない、これを野球人生の最後にしてはいけないと考えていました。そこで、調べ始めたのがイップス克服方法でした。そして、見つけたのが専門家の方がいるイップス研究所。早速、話を聞いてみると、研究所の方は私にこう尋ねました。「イップスはメンタルの弱い選手がなると思っているでしょ?」。私がうなずくと「それは違うよ。イップスは才能。身体が思うように動かなくなるまで、自分を追い込むストイックな精神を兼ね備えているからこそなるもの。乗り越えれば、一つ上のステージに行ける人間だ」と。その言葉を聞いて、一気に目の前が開け前向きな気持ちになれました。イップスへの考え方が変わり、再スタートを切ることができたのです。

覚醒、そして次のステージへ
それからの私は、22時に学校のグランドに繰り出し、自主練を始めました。ひたすらネットスローをし、「投げる」という動作を一から洗い直す作業。試行錯誤を繰り返し、大学の野球部へ入部する前には、もとの自分の状態に戻っていました。もう、イップスで苦しむことはなく、手応えも感じるようになっていましたが、毎日欠かさず帰宅途中に高校のグランドでネットスローを続けていました。そして、このネットスローを始めて5年目となる大学4年の夏、「これだ!」という感触をつかんだのです。その後に行われた合宿のシートノックで、そのスローを披露すると、皆はびっくり。覚醒だと言われていました。とにかく手応えがすごくて、自分のものになったと確信しました。これでレギュラーをつかみ最後の大会に出ようと思った矢先、野球肘に襲われ万事休す。大会ではボールボーイを務め、大学野球を終えましたが、高校の引退時とはまったく違う気持ちでした。やり切った、納得いくまでぶっ壊れるまでやった、そんな充実感でいっぱいでした。

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悩んでいる選手の皆さんへ
イップスを悪いものだとは思わないでください。深く悩む人ほど、ストイックに取り組んでいたり、責任感が強かったりするもの。そんな精神を兼ね備えている人は、野球であっても、野球ではない別の組織でも頼られる人になり得るでしょう。だから、マイナスな状況の中で自分を否定しないでほしいのです。「楽にすればいい」「適当にすればいい」ということは、決して解決策ではないと私は思います。むしろ、適当にできないことを誇りに思ってほしい。徹底的に向き合って乗り越え、次のステージに上がってほしい。適当にできない責任感の強い君は、それができる人なのだから。私の次なる野望は、そのステージに上がった仲間と、野球でなくても仕事、事業、研究…何か一緒にできたらと考えています!きっと最高におもしろいはずですよ。

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(記事:  金木有香)


イップス研究家

谷口 智哉

世田谷西シニア→慶應義塾高校→慶應義塾大学

 

中学時代は世田谷西シニアの全国優勝メンバー。慶應義塾高校に入学したが、ある出来事をきっかけにイップスになり、最終年の夏の大会はベンチ外で高校野球を終える。その悔しさを晴らすべく、慶応大学野球部に入部し4年間の練習の末、イップスを完全に克服。 引退後、大手金融機関から内定をもらうも、同じようにイップスに悩む人を助けたいと決意し、内定を辞退し人生の全てを懸けてイップス研究家として活動を開始。現在はYouTubeでの情報発信や、LINE@での個別カウンセリングを行い全国のイップスで悩む選手たちをサポートしている。



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